教育情報 本格的なプログラミング学習で
AI時代を担う人材を育成する

本格的なプログラミング学習でAI時代を担う人材を育成する

中学校高等学校

各校が理想とする生徒の将来像を描き、多くの私立学校が時代に即したキャリア教育を実践している。

淑徳SC中等部・高等部(東京文京区・女子校)が創立されたのは1892(明治25)年。120年に及ぶ長い歩みの中で、一貫して校祖の輪島聞声(もんじょう)先生が説いた「進みゆく世に後れずに、有為な女性となれ」という校訓のもと、常に時代の先端を行く女子教育を実践してきた。学校名の「SC」には「Successful Career」=「女性として『よりよく生きる』」という意味が込められている。

同校では日々進化するAI(人工知能)社会を見据えて、ICT教育にさまざまな角度からアプローチしている。なかでも注目したいコンピュータの物理構造を学ぶ授業を紹介する。

超小型PC「ラズベリーパイ」で
コンピュータの仕組みを目で見て学ぶ(中1)

コンピュータの演算や記憶装置がどのように構成されているのか、いわばコンピュータの仕組みを学ぶのが、物理構造の授業である。その取り組みの一つが、超小型のパソコン「ラズベリーパイ(Raspberry Pi)」を教材とした授業だ。ラズベリーパイとは、学校でコンピュータの基本を学ぶためにイギリスで作られたコンピュータである。手のひらサイズながらOSをインストールでき、マウスやキーボード、ディスプレイを接続できる安価なコンピュータとして、教育目的だけでなくホビー用途としても知られている。

授業は専門内容に精通する外部講師を招いて行われる。中1ではプログラミングの基礎を学び、最終的にはキャラクターを動かしたりアニメーション作品を制作したりする。

授業は「ラズベリーパイ」を開封し、電源を入れてモニターやキーボード、マウスを接続するところからスタートする。

初めて見る小さな基盤に「これがコンピュータなの?」と生徒たちは驚きながら、その基盤を透明プラスティックケースに取り付け、電源を入れ、マウスとキーボード、ディスプレイを接続していく。通常のノートパソコンやデスクトップパソコンなどでは見えない基盤を目で見ることができるため、細かなチップやUSBポートといった仕組みを確認できるのがポイントだ。

プログラミング言語を書いてゲーム制作に挑戦!(中2)

中2ではゲーム制作に取り組み、生徒たちが楽しみながら学んでいける内容となっている。

中1では簡単な操作でプログラミングが行える「スクラッチ」というソフトを使って、プログラミングの基礎を学び、中2では本格的に「パイソン」というプログラミング言語を用いてゲーム制作に取り組んでいく。

スクラッチは「ビジュアルプログラミング」といわれるもので、マウスで操作ボタンを組み合わせるだけでキャラクターを動かすことができたが、パイソンではより発展的な操作が必要となってくる。パイソンはキーボードでプログラミング言語を入力しなければプログラムを組むことはできない。

はじめは見本のコードを自分のパソコンに入力し動かしてみるところから。ただし1文字でも違っていればプログラムは実行されない。生徒たちは失敗と試行錯誤を繰り返す中で、成功したときの喜びを積み重ね、夢中になって取り組んでいく。

コンピュータサイエンスに楽しさや達成感は不可欠

中1を担当する(2018年取材時)福嶋寿奈先生は「生徒たちはタブレット端末を使いこなし、スマートフォンの操作も得意だが、パソコンの仕組みはこの授業で初めて知ったはず」と話す。

中1・中2という段階でこうした授業を実践していることの背景に、今の子どもは昔のようにコンピュータを趣味として楽しんだり、夢中になったりする経験が少なく、その結果、コンピュータサイエンスへの関心が薄れてきていることを危惧し、歯止めをかけたいという思いがあるという。

電源やコネクタを挿す位置がわからず、初動の操作にも試行錯誤する生徒たちが、1時間ずつじっくりと時間をかけて授業を進めていく中で、コンピュータへの理解を深めていく。

入試広報部の片平清先生は、「当初、高1で導入しようという意見もあったが、思い切って中1から導入した。前年度の生徒たちは、やってみたら面白いと感じたようで、達成感が見られた。中1で習得した基礎を踏まえ、中2からはプログラミング言語を使って自分でプログラムを組む体験をし、中3では、新言語のルビーにも挑戦したい」と話す。

今後のAI時代を見据えて、コンピュータサイエンスを学ぶことは大変意義があり、就職先も日本だけでなく海外に広がる可能性がある。その土台となるのが、中高時代に得るコンピュータそのものへの興味・関心。ラズベリーパイを使ってコンピュータを自分で作り、プログラミングをしてソフトを動かしてみる、という原体験が生きてくるのである。